私は、禅の言葉や中国の古い詩詞が好きです。
短い言葉のなかに、広い景色がある。読むときの心持ちによって、以前とは違う意味が見えてくる。忙しい日々のなかでも、ふと立ち止まらせてくれる言葉があります。
その一つが、六祖・慧能のものとして伝えられる「本来無一物」です。
心を磨く神秀、とらわれを離れる慧能
『六祖壇経』には、同じ師・弘忍のもとで学んだ神秀と慧能の偈が伝えられています。偈とは、仏教の教えや心境を詩の形で表したものです。
まず、神秀の偈。
身是菩提樹
心如明鏡臺
時時勤拂拭
勿使惹塵埃
現代の日本語で意訳すると、次のようになります。
この身は、悟りの樹。
心は、台に据えられた澄んだ鏡のようなもの。
絶えず心を込めて拭き清め、
塵や埃がつかないようにしよう。
心を鏡にたとえ、日々磨き続ける。その姿勢には、誠実さと、静かな強さを感じます。
これに対して、慧能の偈として広く知られているのが、次の四句です。
菩提本無樹
明鏡亦非臺
本來無一物
何處惹塵埃
こちらも、現代の日本語で意訳してみます。
悟りには、もともと樹という形はない。
澄んだ鏡にも、固定した台があるわけではない。
本来、何一つ実体としてとらえるものがないのなら、
いったい、どこに塵や埃がつくというのだろう。
磨くべき鏡を見つめる神秀と、その鏡さえも固定したものとしてとらえない慧能。
私は、とりわけ慧能の言葉に惹かれます。握りしめていたものを、そっと手放したときのような、広がりを感じるからです。
日々の仕事には、磨き続ける姿勢を
司法書士の仕事では、一つひとつの確認が欠かせません。
お名前の一文字、日付、権利関係、そして当事者の意思。慣れた手続きであっても、確認を省いてよい理由にはなりません。
知識を更新し、書類を見直し、自分の理解に思い違いがないかを確かめる。
この地道な積み重ねには、神秀の「時時勤拂拭」に通じるものを感じます。
経験を重ねても、専門家としての自分を磨く手を止めない。その姿勢は、日々の仕事の土台でありたいと思っています。
人に向き合うときには、思い込みを手放す
一方で、経験を重ねるほど、気をつけたいこともあります。
「以前の案件と同じだろう」
「この方は、きっとこう考えているだろう」
経験が役に立つ場面は多くあります。ただ、その経験から生まれた思い込みによって、目の前の人の言葉を聞き逃してしまうこともあるかもしれません。
私は、中国語・英語・日本語でご相談を受けています。同じ言葉でも、その背景や込められた思いが違うことがあります。国籍や肩書だけでは、その方の事情は分かりません。
まずは聴く。そして、分かったつもりにならず、確かめる。
そんなとき、私は「本来無一物」という言葉を思い出します。
仏教の教えを十分に語れるわけではありませんが、私には、自分のなかにある決めつけを、いったん手放してみようという呼びかけのように響きます。
書類の向こうにある、その方の人生
会社をつくる方には、これから始めたい仕事があります。
不動産の名義を変える方には、暮らしの変化があります。
相続のご相談には、家族それぞれの思いがあります。
書類には必要な事実が記されますが、その方の気持ちがすべて書かれているわけではありません。
専門家として知識と責任を持ち、丁寧に手続きを進める。そのうえで、相手のお話を受け止める余白も、大切にしたいと思います。
仕事には、磨き続ける姿勢を。
人に向き合うときには、とらわれを離れる心を。
神秀と慧能の二つの偈は、異なる心境を表しています。それでも、私の日々の仕事を照らす言葉として、どちらも心に留めておきたいのです。
好きな詩や禅の言葉を読み返す時間は、自分がどう働き、どう人と接したいのかを、静かに問い直す時間でもあります。